なぜ秀吉はバテレンを追放したのか

世界遺産「潜伏キリシタン」の真実

三浦 小太郎 著 2019.02.21 発行
ISBN 978-4-8024-0067-1 C0021 四六並製 277ページ 定価 1760円(本体 1600円)

はじめに

 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか

歴史小説好きの少年の例にもれず、私もまた中学校時代から戦国時代の合戦や武将物語にのめりこみ、吉川英治、山岡荘八、そして司馬遼太郎などに読みふけっていた。どうも中学校の卒業文集か何かで、将来の夢、として「歴史小説家」とか書いたような覚えがある。もちろん、そんな文才は持ち合わせていなかったが、この時代には、何か魅力とともに大きく日本が変わる時代のきっかけがあるような漠然とした思いは抱きつづけてきた。
そして、近年、多くのすぐれた歴史書に触れる中、私なりの戦国時代を、キリスト教がなぜ禁じられたかを根底に考えてみたいという思いが生まれてきていた。青少年時代の私は御多分に漏れず、キリスト教禁教や鎖国政策を、日本文化が小さく閉ざされ、自由な信仰、個人の自立、神と人間、運命と人間の思想的ドラマを放棄して因襲と身分制度の江戸封建体制に向かう「反動的政策」、もっと正直に言えば「歴史をつまらなくしてしまったもの」と考えていた。それがいかに愚かで狭いものだったのか、近代や「自由」という概念を絶対視し、歴史をゆがめる視点だったのか、それを検討するのが本書の目的と言ってもよい。

本書は渡辺京二の『バテレンの世紀』(新潮社)なくして生まれなかったものである。渡辺は日本と西洋の「ファースト・インパクト」というべき戦国時代のキリスト教伝来から鎖国までの歴史を、まるで森鴎外の歴史文学のように、感情を抑えた抑制的な文体と、読み込まれた膨大な歴史資料を引用し組み合わせることによって、まるで古典劇の連続上映のように私たち読者の前によみがえらせた。
その後私は、何度か拾い読みしただけになっていたルイス・フロイスの『日本史』を通読、ここに描かれた、織田信長や豊臣秀吉の姿、そして様々なキリシタンたちの群像に感銘を覚えるとともに、やはり当時の宣教師たちの、キリスト教文明以外の価値観に対する偏見にも改めて気づかされたのである。そして、神田千里、藤木久志をはじめとする優れた歴史学者の著書からは、わが国の歴史学が着実に業績をあげていることを教えられた。
本書で行いたかったのは、まず第一に、彼ら先達たちの業績を多くの方々に紹介することである。私自身にオリジナルな知見や思想は何もない。できるのは、私なりに彼らの著書から学んだことを再構成することだけであった。それによってこの時代を生きた人々の姿が読者の皆様に伝わってくれているか否かはご判断にゆだねるしかないが、本書で紹介させていただいた文献は、ことごとく読む価値のあるものである。ぜひ読者の皆様には、拙著を手掛かりに、戦国史のさらに深い世界をたどる旅路に足を踏み出していただきたい。ただし、資料の選択やそれにつけたわずかなコメントの中に、私なりのキリスト教や、時代への思いは込められている。

もう一つ、昨年(二〇一八年)夏、ユネスコの世界遺産委員会が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本両県)を世界文化遺産に登録することを決定したことも、本書を執筆する大きな動機の一つになった。ここで私的な思い出をはさませてもらえば、中学時代に少年用の『聖書物語』を読み、高校から二十代にかけて、ドストエフスキーら西洋文学の魅力に取りつかれるとともに、わからぬながら聖書をひも解く青春時代を送った私は、豊臣秀吉や江戸幕府のキリスト教弾圧とその後の鎖国政策を、日本文化を極めて閉鎖的なものにしてしまったものとして批判的に見るようになった。その印象はごく最近まで消えなかったといってもよい。
しかし、江戸時代の豊かな文化や、西洋のキリスト教布教が、侵略や植民地政策と密接に結びついていた歴史的事実を知るに至った今、なぜ当時の為政者がキリスト教を禁じたのかを、当時の時代背景に即して再検証することは、現在のグローバリズムとナショナリズムの対立について考える上でも大きな意味合いを持つものと思われる。潜伏キリシタンの世界遺産登録を私は批判するつもりはないし、信仰を守り抜いた人々の信念には心から敬意を表する。しかし、キリシタン大名の領地における寺院の破壊行為、強制的な改宗、そして日本人奴隷の問題などからも、やはり私たちは目を背けてはなるまい。そして本書最終章で紹介する、日本独自の信仰を守り抜いた人々が、大東亜戦争後、正統カトリック信仰に属することなく、自らの伝統信仰にとどまったことこそ、歴史遺産としての潜伏キリシタンを語る上で決して無視してはならないはずだ。

本書はまず、戦国乱世の時代の実相と、そこにもたらされたキリスト教の性格を紹介するところから始まる。まずこの二つを述べておかなければ、この時代においてキリスト教が人々にどのように映ったのかも、宣教師たちの情熱(と同時に偏見)のありかも理解できないからである。そこではまず、この時代を「自由と解放の時代」として描いた網野義彦の歴史観が批判的に検証されるとともに、イエズス会を作ったイグナティウス・デ・ロヨラの思想が紹介されることになる。
戦国乱世は、勝利した者が権利を得るという、徹底した「自己責任」「自力更生」の時代だった。ロヨラが生きたルネッサンスと宗教改革の時代も、それと似た時代であったかもしれない。この時代に生まれた「キリスト教の戦士団」たるイエズス会が、乱世の時代に日本を訪れたことは、まさに東西文明の衝突であり、そこでは様々なドラマが生まれた。だが、このような「乱世」の時代は、同時に飢餓と戦乱が続く中、民衆は時には加害者、時には被害者として、お互いの権利や財産、果ては生命までも奪い合う修羅の時代でもあった。この時代に平和をもたらしたのが、信長、秀吉、家康という三人の傑出した統治者だった。
特に藤木久志が紹介する豊臣秀吉の姿は、日本を平和的な統一国家とするために総合的な政策を構築した偉大な統治者である(本書では文禄・慶長の役に関しては、テーマから逸れるため論ずることはできなかったが、従来は愚行とされてきたこの朝鮮遠征に対しても新たな視点が必要と思われる)。そして、その「平和」のために、なぜ伴天連追放やキリスト教布教の禁止が必要だったのか、私たちは殉教者の悲劇とともに、統治者の政治的選択の意味をもくみ取らねばならないだろう。

目次


はじめに

第一章 中世という「乱暴狼藉」の時代
網野善彦批判と「残酷な自由」
理想としてのアジール『無縁・公界・楽』
網野史観の根源的な誤り
乱暴狼藉を働く雑兵たち
経済が要因の略奪と人身売買
一向一揆の虚実 
天道思想──戦国における宗教

第二章 イグナティウス・デ・ロヨラと『霊操』
トルデシリャス条約という世界分割
イエズス会とイグナティウス・デ・ロヨラ
霊操の思想──近代における「原理主義」のはじまり
フランシスコ・ザビエルの航海

第三章 イエズス会士・ザビエル
ザビエルと最初期の布教活動
ザビエルの布教と「天道」とのすれ違い
コスメ・デ・トルレス──人格者の布教
平戸における神社仏閣との激突

第四章 戦乱の時代のキリシタン大名
フランシスコ・カブラルとその日本人観
大村純忠の領土における「強制改宗」
寺院の破壊と数万人の「改宗」
大友宗麟と家族内の混迷

第五章 織田信長とルイス・フロイス
ルイス・フロイスと彼の『日本史』
織田信長とフロイスの邂逅
あり得たかもしれない信長による「キリシタン大弾圧」

第六章 ヴァリニャーノと天正遣欧使節
ヴァリニャーノのイエズス会改革
安土城とヴァリニャーノの上京
天正遣欧使節

第七章 世界に連れ去られた日本人奴隷たち
岡本良知の先駆的、かつ公正な日本人奴隷研究
全世界に広がった日本人奴隷

第八章 豊臣秀吉の伴天連追放令
豊臣秀吉の平和構築
仏教寺院への破壊をやめぬイエズス会の布教活動
伴天連追放令に指摘されるキリシタン批判

第九章 宣教師による軍事侵略計画
キリシタン宣教師の「日本軍事作戦計画」
天正遣欧使節の日本帰国
サン・フェリペ事件と秀吉の死

第十章 徳川幕府が禁教を決断するまで
岡本大八事件とキリスト教禁教
「転び伴天連」トマス荒木
トマス荒木の棄教と、狂気の中での神への回帰

第十一章 島原の乱─日本キリシタンの千年王国戦争
禁教と殉教のはじまり
千年王国運動としての農民一揆
一揆に表れた千年王国の思想
石牟礼道子と鈴木重成

第十二章 「天道思想」と一体化した隠れキリシタン
隠れキリシタンと「オラショ」
オラショという祈り
遠藤周作やキリスト教学者たちの批判
天道思想とキリシタンとの融合
正統派カトリックへの改宗を拒否した「キリシタン」の生き方

おわりに

主要参考・引用文献



 

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