林芙美子が見た大東亜戦争

『放浪記』の作家は、なぜ「南京大虐殺」を書かなかったのか

宮田 俊行 著 2019.01.29 発行
ISBN 978-4-8024-0072-5 C0021 四六並製 272ページ 定価 1760円(本体 1600円)

「はじめに」より抜粋

林芙美子が見た大東亜戦争

『放浪記』で知られる作家・林芙美子は、昭和一二(一九三七)年一二月二七日、長崎から船に乗って中華民国の首都・南京に向け旅立った。
東京日日新聞・大阪毎日新聞(両紙がのちの毎日新聞)の特派員として、二週間前の一三日に陥落したばかりの現地を取材するためだ。
翌二八日上海に着くと、三〇日陸路で南京に向かい、三四歳の誕生日を迎えた大みそかに「女性の南京一番乗り」を果たす。その後、明けて一三年一月三日まで滞在している。
いわゆる「南京大虐殺」の定義はいろいろあろうが、月刊「正論」編集部によると、「旧日本軍が中国の当時の首都・南京を占領した昭和十二年十二月から翌年初めにかけて、多くの中国軍捕虜や市民を虐殺した──と宣伝された事件」である(『別冊正論』26)。
つまり林芙美子は、まさにその真っただ中にいたわけだ。
南京市内に三泊、前後に露営を一泊ずつ、計五泊六日の南京行である。〝大事件〟を目撃するには十分な時間だ。
ところが、帰国後わずか半年で刊行した『私の昆虫記』に収めた一連の南京従軍記には、一言の虐殺行為も出てこない。日本軍の〝蛮行〟を暗示したり、うかがわせることさえ、何も出てこない。 南京市は城壁で囲まれている。城内の面積は四〇平方キロメートル。
東京二三区で六番目の江東区が四〇・二平方キロメートル、市では那覇市が三九・九八平方キロメートル(県庁所在地の中で飛び抜けて狭い)で、ほぼ同じ広さだ。
こんな狭い所で何十万人規模の大虐殺が行われていれば、滞在していた林芙美子が気づかないはずがない。しかも新聞記者やカメラマンと行動を共にし、いつでも情報は真っ先に入る立場にいた。 ところが、繰り返すが、彼女は何らの虐殺行為も記録していない。
なぜか。
虐殺などなかったからだろう。このことについては、第八章で詳しく見ていく。

筆者が林芙美子を取り上げる理由は、その南京従軍記が一次史料であることに尽きる。〝南京事件〟とて、もう八〇年以上前の「歴史」なのだ。
歴史学者の谷口研語氏によると、「ある事件や人物と同時代に生きた人が作成したもの」が一次史料である(『歴史街道』二〇一八年六月号)。太田牛一の「信長公記」や、ルイス・フロイスの「日本史」などが、これに当たる。
では、一次史料がどうして重要なのか。
「後世成立の著述・編纂物〔注:二次史料〕には、多かれ少なかれ作者の意図的な潤色・操作・捏造が含まれている。あるいは、まるっきりの創作という可能性だってある」からだ。
もちろん、一次史料にも〝危ないもの〟はある。
①偽造された文書②文書の偽造ではないが、文書の内容が偽り③噂や伝聞──である。
しかし、「以上のような問題点はあっても、一次史料と二次史料では史料的価値の次元が違うのであり、二次史料による通説を一次史料によって否定することは可能だが、その逆はない」(谷口氏)のである。
つまり、戦後の東京裁判史観(二次史料による通説)を林芙美子の南京従軍記(一次史料)によって否定することは可能だが、その逆はない。林芙美子が南京の現場にいながら虐殺を書いていないからといって、東京裁判史観に照らして「それは嘘だ。見たはずなのに嘘をついている」と言うことはできないのだ。
東京裁判史観ともう一つ、WGIP(War Guilt Information Program)についても近年、広く知られるようになった。
これは、終戦直後からアメリカによって行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」である。
文芸評論家の江藤淳氏が『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(一九八九年、文藝春秋)で初めて指摘したものだが、関野通夫氏が『日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦』(二〇一五年、自由社ブックレット)で再検証してから注目されるようになった。 東京裁判にしろWGIPにしろ、どんなに論争を繰り返そうと、お互いが凝り固まった歴史観に基づいて主張しているから、解決や歩み寄りの余地はない。相手は、論破されてたまるかと思っているのだから。
だからこそ、最も重要で価値があるのは、後世の「意図的な潤色・操作・捏造」や「創作」のない、一次史料だ。特定の史観が生まれる以前の、何ものにも影響されていない史料だ。このことはいくら強調しても、し過ぎることはない。
林芙美子は、昭和五(一九三〇)年から一八(一九四三)年にかけて、北は樺太から、朝鮮、満州、支那、台湾、仏印、南は蘭印まで、驚くべき範囲を旅している。その範囲は、いわゆる大東亜共栄圏とぴったり重なる。
林芙美子ほど〝戦線〟を広く踏破した作家はいないし、おそらく軍人やジャーナリストにさえいないだろう。幸い、作家だから多くの記録を同時に残している。この足跡を検証しないのは実にもったいない。
ところが、従来の林芙美子研究には大きな弱点、空白があった。
戦後、芙美子は「戦争協力作家」という烙印を押された。その批判に遠慮して、あるいは研究者自身の自虐史観から、林芙美子と大東亜戦争の関わりの部分は、見て見ぬふりをして避けてきたのだ。
これは、宝の山が手つかずに目の前にあるようなものだ。
なにしろ、林芙美子が当時書いたものは、後世の「東京裁判史観」とは何ら関係のない「一次史料」だから、読むだけで面白い。また、どんな戦争の概説書よりも、とっつきやすいし読みやすい。それがそのまま、大東亜戦争とは何だったのかを知り、考える機会になる。
さあ、宝の山=生の史料に分け入っていこう。結果から遡らないようにしよう。きっと、いろんなことが分かってくる。
まずは昭和五年一月の台湾行きから始める。

目次


 はじめに──一次史料の重要性

第一章 台湾、中国、二六歳の旅
「植民地」に悪い意味はなかった
「良妻賢母を説いて下さい」
『放浪記』の印税で放浪
兵隊への尊敬がないのにびっくり

第二章 ソ連大使に極秘書類を届ける
満州事変の真っただ中へ
「匪賊の蟠踞している処」
「愛国心とでも云うのか」

第三章 恋人はリットン報告書スクープ記者
パリは文士には面白くない
ロンドンではコミンテルン目撃
リットン卿接近の合間に芙美子とデート
芙美子との別れの後、歴史的スクープ

第四章 コミュニストにソ連亡命を誘われる
たやすく〝洗脳〟される芙美子
二人でベルリンへ行く
ベルリンの次はモスクワだったはず
共産党がらみで拘留された芙美子

第五章 「内地」だった樺太
住民の九五パーセントは日本人
樹木がなくて驚く
警察にマークされ、いびられる
製紙業で繁栄する島
少数民族を教える小学校を訪問
北方領土問題の始まり

第六章 侵略する欧米、非難されるのは日本
水浴を禁じられる地元の中国人
「日本に好意はなくなりました」
租界の外の地獄

第七章 南京に行くまで
はつらつとした少年航空兵に頼もしさ
三六歳の夫に召集令状

第八章 虐殺はなかったから書かなかった
南京陥落直後、急遽、日本を発つ
埋もれた一次史料『私の昆虫記』
陥落後、南京は整然としていた
治安回復と食糧支援に全力
東京裁判判決文との圧倒的な落差
百人斬りを黙殺
一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う
再びの南京は親日政権になっていた
戦争の崇高な美しさ
中国兵の処刑まで見たまま書く
再び女性一番乗りを果たす
こんな犠牲を払っても外国に遠慮
「戦死者は五名」に嗚咽
PTSDとなる

第九章 文芸銃後運動に打ち込む
満州に向かう人の群れ
首都新京の堂々たる大建築
牡丹江も発展で住宅不足
どこにでも女性が来て地盤を作る
突如、愚痴がはさまる
五族協和の世界
「銃後婦人の問題」を各地で訴える

第一〇章 太鼓をならし笛を吹いたのは誰か
「東亜においてただ日本だけ」
恩人、長谷川時雨の死に際して
小林秀雄との朝鮮講演旅行
米英との開戦二カ月前に新居に引っ越す

第一一章 七カ月にも及んだ南方従軍生活
花のいのちはみじかくて
女の作家は軍の嘱託、男は徴用
ダラットは南方軍の終焉を象徴する場所
親日はいいが指導も必要
若い日本女性に最大の敬意
石油をめぐる戦争
大東亜共栄圏の思想に共鳴
東條首相をマニラに迎える

第一二章 アッツ島「玉砕」で突然の沈黙
似合わない空襲からの逃避
藤田の絵に膝をついて祈り拝む人々

第一三章 苦労したのは慰安婦ではなく一般女性
未亡人の問題が何より急がれる
偉そうな婦人代議士は一刀両断
慰安婦は年季奉公の娼婦だった

第一四章 さよなら、マッカーサー
神と人とが一つになった瞬間
魂を揺さぶられたマッカーサー
連合軍は戦犯の遺骨まで持ち去った
東京裁判に疑いの言及なし
早く朝鮮の土地を平和にして
引揚者を慰めた林芙美子の本

 おわりに──伯父は特攻隊員だった



 

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