
人類普遍の真実が「常識」だと規定すれば、おそらく的外れである。
東西で共通する真理は多いが、各国は独自の文化、風俗がある。宗教の違い、国や地域の伝統によってコモンセンスは大きく異なる。特に善悪、聖魔、正邪、正不正の判定基準が異なる場合、コモンセンスとはいったい何か。
アフガニスタン戦争に米軍が介入し、キルギスのマナス国際空港に海兵隊など二千の米兵が駐屯したことがある。すぐに取材に行った。首都ビシュケク市内でタクシーを拾うと、英語がまことに流暢な知識人ドライバーだった。経済劣悪のためこういう仕事しかないとこぼした。話題が米軍駐留に触れ、日本には数万の駐在米軍がいると言うと、
「えっ、日本は独立国家じゃないのか」
と驚かれた。世界の常識に照らせば、独立国にそれほどの規模の外国軍がいるわけはない。
米国でラジオ局に招かれインタビューされたとき、北朝鮮に拉致された日本人被害者の話題になった。
「同胞が拉致されたら特殊部隊を送り込んで取り返すのが常識じゃないのか」
と言われ、返す言葉がなかった。
ソ連が崩壊した頃、よくモスクワへ取材に行った。穏健そうなロシア人に、
「日露間には北方領土問題が未解決です」
と水を向けると、
「なら軍事力で取り返せば良いではないか」
と単刀直入だった。
国際法では、占領軍が被占領国に憲法を押しつけるのは違法である。したがって「日本国憲法」なるものは占領基本法でしかなく、西部邁は「こんなもの踏みにじれ」と言っていたっけ(ドイツはこの三月にも戦後数十回目の憲法改正を決議したが、その改憲の気軽さ!)。
竹村健一はよく「日本の常識は世界の非常識だ」と言っていた。
大国だけが核武装し、日本に持たせないのは非常識というより不条理だろう。しかし日本が理解していないのが「復讐する権利」である。アメリカはたとい同盟国の日本であっても核武装したら必ず二発報復すると信じている。だから日本には絶対に持たせないのは「復讐権という国際常識」に立脚しているからだ。
法律を守るのが日本人である。いちど決まったら悪法でも墨守する。だから周恩来は日本人の法治徹底を揶揄するかのように「法匪」と揶揄した。法律は体裁上策定するが、守らないのが中国人だ。彼らの合い言葉は「上に政策あれば下に対策あり」。
法律は自分たちで決めても都合が悪くなると臨機応変に改正(改悪?)するの欧米政治の特色。カメレオン的な法治制度である。
この小冊ではコモンセンスの東西比較を基軸に、特にトランプ政権の行おうとしている「常識革命」とはなにか、日本のコモンセンスと何処か違うのかを多角的に考察したい。