
2022(令和4)年2月23日に出版した私の著書『江戸幕府の北方防衛』は、翌24日にロシアがウクライナに侵攻し、ロシアによる領土侵略への脅威に関心が高まったこともあり、版を重ねている。拙著を読んだ人々からは、「江戸幕府の北方防衛の事実を知らなかった」という意見が圧倒的に多く届けられ、「明治以前の北海道はアイヌのものだった」と思わざるを得ない歪んだ歴史教育を受け続けてきた日本人に「明治以前の北海道を統治していたのは江戸幕府と松前藩」を明確に示す目的を果たすことができたと思っている。
それでは「江戸幕府と松前藩の統治を支えた経済活動の担い手」は誰だったのか? 米本位制の幕藩体制の中で、ただ一つ「商い」で藩を経営していた松前藩。その担い手は蝦夷地をめざした江戸時代の商人だったのだ。
江戸時代の商人といえば、時代劇などで悪代官と結びつき暴利をむさぼる悪者、あるいはマルキシズムの歴史学者の分析で「搾取」するものという定番表現で、商人といえば悪と日本人を洗脳してきたが、事実を一定の史観でみるのではなく「何を為したか」の視点でみると、蝦夷地をめざした果敢な挑戦者、商人の活動が北方防衛と開拓の先駆けであったことが浮かび上がってくるのである。
蝦夷地をめぐる江戸時代の商人が果たしたことは、幕藩体制の中の松前藩の経営を支えたのみならず、その交易、商行為が江戸時代の日本人の暮らしを革新的に変えた原動力であり、蝦夷地をめざし北前船が大坂を起点に瀬戸内海、日本海に沿った港々の米、酒、砂糖、塩、木綿、鉄器、生活用品、名石などを売り買いしながら航海をし、松前藩にたどりつけば必ず売れることから、製品供給地は安心して生産することができるようになった。
そしてこのことは、各地が製品の代表的産地へ発展していくことであり、やがては日本の近代経済の発展の源になったのである。
一方、松前藩が統治する蝦夷地での「商い」は、はじめ松前城下にアイヌの人々が狩猟した鷹の羽、毛皮、干鮭などを持参して、藩や藩士が商人から仕入れた米、酒、塩、古着などと物々交換する「城下交易制」であったが、やがて蝦夷地・樺太・千島各地にある松前藩直領、藩士知行地の「商い場=場所」に年に1~2度船を仕立てて出向き、前述の各々の製品を物々交換する「商場知行制」に変化していく。だが、1700年初め頃には、商行為が複雑になり、武士の手に負えなくなると、商人に運上金を藩や藩士に支払わせ、「商い場=場所」の商行為一切を商人に請け負わせる「場所請負制」となっていくのである。この商人=場所請負人が蝦夷地・樺太・千島でアイヌの狩猟製品とは別に、日本国に必要な物産―木材、鰊の〆粕等の生産を担いつつ、防人的役割と地域の暮らしを成り立たせる北方防衛と開拓の先駆けとなるのである。
豊臣秀吉、徳川家康という我が国の稀代の統治者は経済もよくわかっていて、蠣崎氏(後、松前氏)の地域経営を「商い」で成り立たせるための方針を与え、両者とも「アイヌに非道なことをするな」と命じている。江戸幕府は一貫して、和人とアイヌの得手の製品の物々交換が成り立つように、アイヌを「撫育・介抱」の対象としているのが事実である。白人がオーストラリアで狩りの対象としたアボリジニや、アメリカやカナダで開拓のために駆逐したインディアンをアイヌと同一視して語るのは間違いである。
蝦夷地における商人の功績が知られないのはなぜなのか? それは、教科書、教育から商人たちの活躍が排除されているのが一つの原因であろう。教科書には、前述したように、江戸幕府と松前藩はアイヌに対し「撫育と介抱」を方針としていたことや、和人はアイヌが欲しい商品を持参して物々交換するなどアイヌの生活向上に大いに貢献していたなどの記述はない。反面「シャクシャインに率いられたアイヌの人々は不正な取引を行った松前藩と戦いました」(東京書籍『新しい社会 歴史編 小6』87頁)のような事実誤認の表記で「松前藩、商人は悪」の歪んだ歴史教育で日本人を洗脳してきたからと推測している。
私は、この著書で「江戸幕府と松前藩の統治を支えた経済活動の担い手―蝦夷地を舞台に活躍した江戸時代の商人」の功績や、その果敢な挑戦が北方防衛と開拓の先駆けであり、その中で和人とアイヌが各々の得意な製品交換で共生し、各々の生活を向上させてきた事実が同時に日本の近代経済発展の源になってきたことを広く知ってもらいたいと思う。
執筆に当たっては、北海道内にある史跡と共に、商人たちの出身地に出向いて、現地での史跡、文献を確認し、出身地でどのように評価されているのか、双方からの見方を把握して商人の活動の輪郭を出すように心がけた。






